夕日

北田暁大さんの『増補 広告都市・東京』(ちくま学芸文庫、2011年、増補前の親本は2002年)に、クレヨンしんちゃんの映画、略称「オトナ帝国」が論じられていたのですが、たまたま、きょうは、昼にケーブルでオトナ帝国が上映され、夜にBSプレで「続三丁目の夕日」が放映されるという、二つを見比べることのできる状況になりました。
映画としてはオトナ帝国が先ですが、三丁目のマンガ自体はそれ以前から連載されていたわけで、オトナ帝国の回顧的な町並みに「夕日町銀座商店街」という名前がつけられていても、決して不思議ではないのですが、底に流れる「夕日」の感覚は、気にしなくてはいけないもののようです。
オトナ帝国でのケンの野望の失敗は、子どもたちに示すべき、「もうひとつの未来」をきちんと定位できなかったところにあるわけで、そこに、彼自身が「やりなおした未来」を信じきれていないところがあったのでしょう。どこかに、「やりなおせる」ポイントがあるとすれば、いまのおとなたちに失望したとしても、「おとなになりたい」と明言したしんのすけに対して、何かを示せたのではないでしょうか。
三丁目のほうで、そこをみすえているかどうか、三浦友和演じるところのお医者さんは、あの登場人物たちのなかで、わりあい先を見ようとしているように映ります(とくに、1964年を舞台にしたものでは)。対極が淳之介くんのお父さん(今回の大河で為義をやっていますよね)で、前に進むことを是としています。でも、彼は極端に描かれているだけで、鈴木オートの主人にしても、決して彼と本質的な対立があるわけではないのでしょう。
でも、そこが「朝日」ではなくて、「夕日」なのです。熱海に新婚旅行に行く堀北たちが、熱海の海岸で朝日を見るという展開にはならないわけです。〈やり直しは利かない〉とは思えないのですが、すぐには見えないのでしょうか。悩ましいところですね。