責任論

川村湊さんの『原発と原爆』(河出ブックス、2011年)です。
戦後の文化の中で、核兵器原子力の利用に関連するものをひろいあげて、そのもつ意味を考えようとしています。個々の作品評価はいろいろとあるでしょうが、こういうスタンスは見なければなりません。
「もちろん、圧倒的な人脈、金脈、宣伝力、そして反対派を抑圧するための暴力装置を持っているのは『原発推進派』であって、それは一部のニュートラル(中立的)な立場を標榜する評論家が語るような左右対称的な対立ではなく、非対称的なものの闘争、角逐、葛藤にほかならない。つまり、圧倒的に『原発推進派』が有利であり、優勢だったのだ(ここを見落とすと、まるで原発事故の責任は『推進派』と『反対派』に等分されなければならないといった奇妙な[タメにする]論理が生まれてくる。これは明白に虚偽の論理である)。」
みずからの反省として〈力不足〉を語るのなら別ですが、一億総懺悔的な問題のたてかたではだめだということでしょう。これは、原発だけでなく、ほかの問題にもいえることだと思います。その点で、ダブル・スタンダードにならないように、気をつけなければいけないのでしょう。誰でも、そういう弱点はありそうです。