論点

ふと宮本・大西論争を思い出したので。
この論争のポイントは、『真空地帯』の評価ではありません。それに関しては大西巨人の言い分のほうがただしいのかもしれません。
問題はどこかというと、文学運動の責任はなにかということになるのです。
大西をはじめとする当時の新日本文学会の運営の中心に当たっていた人たちは、会員と連絡がとれなかったり、有名無実化しているのではないかと考え、会の『再編成』を考えました。〈専門文学者〉の集まりとして規定しなおそうとしたのです。そのために、当時つかんでいた〈会員〉にアンケートを実施し、その返事がなければ除籍もありうるとしたのです。
要するに、この考え方の背後にあるのは、〈文学運動は、一人前の文学者が集まってやるものだ〉というもので、どうやって〈一人前〉になるのかを文学運動が考える必要はない、というものです。当時、大西の論を支持する人たちのなかには、〈支部なんてなんのためにあるのかわからない〉と公然と主張する人もいましたし、現に新日本文学会は、そのあと支部を廃止します。
一方、宮本顕治の主張の中心は、〈現在の日本で働きながら、社会の変革を考えながら文学をやる中で、一人前になるのは単純にはいかないのだから、文学運動はそこにも目を配らなければならない〉ということでした。それを、〈専門文学者の集まりにするから、アンケートに答えなさい〉という形では、切り捨ての論理になってしまう、ということなのです。
要するに、ジャーナリズムのふるいにかけられた人たちが集まっていればいいのか、次の時代の書き手を自分たちで育てなければならないのか、という立場の違いだったのです。どちらの立場にも理はあるのかもしれません。〈ジャーナリズムから認められなければ、しょせん素人集団でしかない〉と考えれば、大西の論にもひかれるでしょうし、ジャーナリズムの現状を考えると、みずから書き手を育てていかなければならないと意識すれば、宮本の論のほうがわかりやすいでしょう。

『戦後文学論争』(番町書房、1972年)には、『真空地帯』をめぐる論争として紹介されていましたので。