共通の基盤

饗庭孝男さんの『芭蕉』(集英社新書、2001年)です。
最近はすっかり、芭蕉を論じるときに連句を論じなければ芭蕉論にはならないような流れがあって、この本も、そうした問題意識を共有しています。
中学のころだったか、寺田寅彦岩波文庫の随筆集を読んだときに、連句のことが書かれていたのを、なんのことやらわからなかったことがありました。そのころだったか、石川淳丸谷才一大岡信さんたちによる歌仙興行がはじまって、連句に対しての関心も高まっていったかとも思います。露伴全集が再刊されて、芭蕉七部集の評釈が簡単に読めるようになったのもそのころでしたか。
さて、饗庭さんは、芭蕉をめぐる「座」のありようとして、「本歌取り」のような、共通の教養の存在に着目します。そこに「一種のポリフォニー」を見ようとしたり、「季節に対する日本的美意識の力」をみたりします。そこに日本文学の特質を見つけるのです。それは、同人雑誌や文学運動を生み出している、近現代の文学にもある種通じるものがあるのかもしれません。
実は、そういう共通の基盤を掘り崩す危険を、感じることがあります。「著作権侵害」を、親告罪でなくしようという動きがあるという報道や、ネット上での発言を見たり聞いたりしました。極端、「共謀罪」にも関連づけようとする動きもあるようです。
しかし、そうしたときに、『本歌取り』のような感覚はどうなるでしょう。「この××が目に入らぬか」とやっただけで、パクリだとやられてはたまらないような気もします。実際、あえて実名を出しますが、松本零士さんが槙原敬之さんを訴えた一件など、正直言って松本さんの言い分には無理を感じます。しかし、それがなんでもかんでも「疑い」といって、言挙げしていったらどうなるかと思うと、この問題は、もっと大きく論議していかなければならないと思います。
前に、谷川俊太郎さんたちが、自分の作品を学校の副教材としての市販テストに収録することを拒否したことがありました。それによって、娘が小学校のころ、そうした教材が、今までは単独のテスト問題であったのが、「教科書をみながら答えなさい」というようになっていったという変化もあったのです。
その点で、何よりも議論抜きの強行はやめてもらいたいものです。