ひきうけること

斎藤環さんの『ひきこもり文化論』(紀伊国屋書店、2003年)です。
精神科医の斎藤さんは、ひきこもりのシステムについて考察をしているのですが、その中で韓国にもこうしたひきこもりの状況が結構あるということが紹介されていました。あの国には徴兵制があるのですが、徴兵を終えた青年がひきこもるのだそうです。
日本よりもある意味、学歴重視のあの国ですから、そうしたところも関係するのかもしれません。けれども、日本が母子関係を重点において、そこに甘えと突き放しの微妙な配分があるところが、韓国では母子関係はそんなに強くなく、家名をあげるということを脱出のモチベーションとして持つことができるというのです。夫婦別姓で、母親と子どもとの姓がちがうという習慣が、それをうみだしているのでしょう。
斎藤さんは、みずからの世代からひきこもりが顕在化してきたという事実に注目しています。新人類と呼ばれたこの世代には、共通する大きな実在の事件がなかったことが、一方では新人類やらおたくやらになり、一方ではひきこもりになっていく感性を秘めていたのだというのです。
前にもここで書いたような記憶がおぼろにあるのですが、たしかにわたしたちは「新人類」であることを自己認識にしていかなくてはいけないのだと思います。もうそろそろ社会に出る子どもをもとうとするこの世代が、どのように前の時代からもらったものを次につなげていくのかが、これからの社会のありようを決定していくのだということを、感じていなくてはいけないのでしょう。