大本営発表

山田風太郎『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫、1998年、親本は1973年)です。
1922年うまれの山田青年の、1942年から44年までの日記です。彼は1942年に上京し、田町の沖電気に勤めながら、医学の学校をめざします。1943年の入試には失敗し、1944年の3月には教育召集にかかるのですが、肺浸潤ということで即日帰郷、そして受験した東京医専に合格し、医師へのみちをあゆみはじめるのです。
そのへんのいきさつもおもしろいのですが、沖電気時代の、工場生活の実態も考えさせられます。1942年の12月に、彼は下請け業者の接待に参加して、目黒の料亭にでかけます。予約もなしにはいっていって、総勢5人で酒8本にウイスキー1本、料理若干で勘定が60円だったと書き留めています。まだこのころには、こうした形の飲食も可能だったのですが、だんだんと外食券がなければそとで飯は食えない、さらに自宅で食べないのだからと配給もその分減らされるという事態になったり、炭の配給がほとんどなかったり、という窮乏状態になってゆきます。
それでも、〈戦果〉をつたえる放送は、敵の艦船を何隻も撃沈したといい話をつたえ、実際の状況とは離れた情報を流しているのです。そのさまは、相手の損害を多く見積もり、自分の損害を過少申告するわけです。(ソロモン海戦で沈んだ戦艦は老朽艦だったとか。たしかに、比叡も霧島も、それに関して言えばまちがってはいませんが)そうした、戦時下の実態がみえるところに、公表を予測しないで書かれた日記のおもしろさがあるのでしょう。