位置づけ

藤枝静男『或る年の冬 或る年の夏』(講談社文芸文庫、1993年、親本は1971年)です。
1930年から31年という、作者の青年時代を題材にして、当時の学生の悩みに切りこんだ作品です。1930年の春、名古屋の高校を卒業した主人公は、医科大学への進学がかなわず、浪人します。その時期の悩みと、高校時代の友人で東京の大学に進み、社会をかえる活動にかかわりはじめた者たちとの差異に悩んだり、自分の内にある欲望のコントロールに苦しんだりと、作品発表から40年ほど前の学生生活を描いています。彼らは、文学の面でも、当時のプロレタリア文学のなかの多くの作品が、空疎なスローガンの羅列であり、作品としてのレベルの低さに不満を覚えながらも、どう打開していくかについての確信がもてません。『ナップ』に掲載された木村良夫の「嵐に抗して」を読んでも、技法が「私小説」的であることに納得しないのです。
個々の作品評価については、今はおきましょう。ここで、当時の学生たちに、プロレタリア文学運動が、大きな存在としてあったことが顧みられなければならないのです。
1970年ごろに、40年前を振り返って作品にするというのは、いまでいえば、1970年くらいを作品にするということになります。民主主義文学運動のなかでも、そのころのことを描いた作品も最近よくみかけますし、「シニアサロン」も活発です。けれども、そうした作品に、同時代の民主主義文学の作品を読んだという描写は、意外と少ないというか、あまり記憶がありません。松田解子の「おりん口伝」とか、窪田精の「春島物語」とか、霜多正次の「明けもどろ」とか、そういう作品を登場人物が読んでいるとか、先輩に薦められるとかいう場面が浮かばないのです(思い出せないだけかもしれませんが)。実態として、どうだったのでしょう。