今からみれば

黒澤亜里子さんの編著『往復書簡 宮本百合子湯浅芳子』(翰林書房)です。
1924年、夫との関係がごたついていた百合子は、野上弥生子のところで湯浅芳子と知り合います。そして二人は、ひかれていくようになり、共同生活をはじめます。1927年のロシア行きも、二人で行きます。しかし、帰国後、百合子が宮本顕治と知り合い、結婚を意識すると、二人は別れていくのです。
といういきさつは、ここを訪問してくださる方は、ご存知の方も多いことでしょう。この本は、新しく公表される湯浅書簡や、全集未収録の百合子書簡もあり、また、関係日記などもあって、ぜいたくなつくりになっています。
湯浅芳子は、いまの言葉でいえば、男性に対して性的な関係がもてないのだったといえるのでしょう。それに対して、百合子は、夫もいたわけですし、彼女の性的な志向は男性だったわけです。この本の中の書簡や日記にも、そうした方面に動いていく百合子の気持ちがでているところもあります。そうしてみれば、二人の関係はいつかは破局にならざるを得なかったのでしょうか。
今年の前半の評判になったテレビのドラマで、「ラスト・フレンズ」というものがありました。つきあった男がDVだった女性と、性同一性障害の可能性の高い女性とが、二人の関係をつくっていく話なのですが、ドラマにはいろいろとご都合主義的な展開もなくはないのですが、こうした関係とも似たところが、百合子と芳子との間にはあったのかもしれません。

百合子は、戦後になって、『道標』という作品で、ロシアからヨーロッパに行っていたときの、自分と芳子との関係を「伸子」と「素子」という二人の女性に投影しました。もちろん、それは、書かれた時代の制約もあって、伸子が新しい男性を求めていく姿を正当化するように書かれています。素子はある意味ゆがんでいるようにも読み取れる書き方なのです。そうした百合子の小説の書き方も、今後、こうした資料をもとに、読み解かれていかなければならないのでしょう。

ひとつ、「新発見」(かな)のことを。
百合子の全集に、「獄中への手紙」と題して、宮本顕治への手紙を収録した巻があります。そこにはいろいろと注がついているのですが、その中に、「1月23日」が二人の記念日だったということが書いてあります。何の日だろうと思っていたのですが、今回、湯浅芳子の手記が公開されてわかりました。この本の570ページに書いてあるのですが、湯浅芳子が関西方面にいって、留守の間の1932年1月23日、百合子は住み込みのお手伝いさんの「やす」さんを実家に帰して、宮本顕治を家に泊めたというのです。ふーん。いや、鴎外の『雁』を今、連想してしまいました。