接点

原武史さんの『滝山コミューン一九七四』(講談社)です。
著者自身の小学校時代に材をとり、当時の東久留米第七小学校でおこなわれた「集団づくり」の実践のなかで、みずからがいかに傷ついたのかを検証しています。『群像』連載中から気になっていたのですが、通読してみると、当時の社会情勢のなかで、小学校のありかたを問うものになっています。
原さんは、私より二つ下なのですが、もしも彼が慶応普通部でなく、最初の志望の開成にはいっていたなら、ひょっとしたら接触があったかもしれません。ここで記されている「班づくり」の実践も、班長が班員をドラフト会議のように選んでいくシステムは、わたし自身も小学校で経験したことがあります。原さんの学校のように、ほとんどすべてが公団住宅の住人であったという学校ではなく、自衛隊の官舎もあれば農家もある、新興の小さな戸建て住宅の住人もいるという学校では、ここまでつきつめたものにはならなかったと思います。なにせ、わたしが在学中に学校が3校新設されて分離したくらいの人口急増地域でしたから。
原さんの記述をみていると、最初にあった断罪するような叙述が、だんだんと公平に当時の実践をみつめていくようになっているのがわかります。それはきっと、原さん自身が「被害者」になっていく記述のなかで、つとめて客観的に当時の状況をふりかえろうとする意識が、当時の学校のありかたを公平に見ていこうとする感覚を生み出したのでしょう。その点で、単なる被害の思い出になっていないことは注意しておく必要があるでしょう。
思うに、1970年代に中学受験をした人たちは、やっぱりある種の後ろめたさをもって、学校生活を送っていたような気がします。原さんの通った慶応普通部は知りませんが、開成は当時、千葉や埼玉からの生徒が増えてきて、もともとの下町の学校というイメージが変容しつつあった時代だと思います。でも、新宿や渋谷は無縁の存在で、(もっとももともとの東京育ちの人たちはちがったのかもしれません)せいぜい神保町へ出て(西日暮里からは千代田線で新御茶ノ水へ出れば10分ですから)という感じだったと思いますが、けっこう近場にいろいろとあったような気がします。(そういえば、先輩たちも日暮里や大塚あたりと、けっこう近所でしたね)
原さんが惹かれていたという、五輪真弓のうたう、『僕たちの失敗』のテーマソングなどは、今でもメロディーは覚えていますし、武蔵野線開業の日に、私も新松戸から新座まで(なぜ新座だったのかはよく覚えていませんが)往復しましたから、ひょっとしたらどこかで本当にすれちがっていたかもしれません。そういう意味で、〈痛い〉本です。