空気を読む

もう少し、『浮雲』の話です。といっても、読み直したわけでもないので、あやふやな記述になってしまうと思いますが。
「近代的自我」がもてはやされた時代には、『浮雲』は、目覚めた内海文三が、時流におもねる本田昇やお勢を批判しているという文脈で読まれていたと記憶しています。それが、磯田光一の『鹿鳴館の系譜』あたりで、官僚の中立性か何かを論拠にして、本田昇を描いたことに意義があるのだという議論がなされ、小森陽一さんあたりも、内海文三の描写は、必ずしも理想的人間として描かれてはいないことを論証したような時期があったように思います。
もちろん、リストラされる内海文三に、世間の流れにのれない面があるのは当然のことで、そこをみれば、彼が理想の人間でないことは当然のことにはなるでしょう。しかし、そうした今のことばでいえば、「空気が読めない」内海文三という存在は、決して否定されるべき存在ではありません。自分の妄想にだんだんととりつかれて、ひきこもり予備軍になってしまう内海文三という存在は、今の時代にも他人事ではないのだと思います。
そうした観点から、『浮雲』は読みなおされていいはずです。