二等車

中公文庫の『林芙美子 巴里の恋』(2004年、親本は2001年)です。
1931年から32年にかけて、林芙美子がヨーロッパに滞在していたときの、金銭出納帳・日記・夫への手紙で構成されています。『放浪記』で一躍有名になった彼女が、ヨーロッパでもいろいろな人と交流して、日本へもたくさん原稿を寄せている状況がうかがえます。
それで、1932年の6月に帰国して、その夏、夫婦で長野戸隠あたりに旅行する(夫の実家は長野だっただそうです)のですが、そのとき、二人は上野発の列車に赤羽から乗ったら、二等車が満員ですわれなかったが、検札のときに子どもと女中さんを連れた女性が三等の乗車券で乗っていたので移動させられて、空席ができたのですわることができたのだと書いています。
8月の信越線は、避暑に行く人たちで二等車もすわれないほどだったこと、子連れ・女中連れという、当時の中産階級の人たちも、切符の買いまちがいはあったにせよ、二等車にはいることに後ろめたさはないことがうかがえます。いまのように、グリーン券がオプションとして買える時代ではなかったので、車両の移動を命ぜられたのでしょう(今でも、混雑してたらぶつぶついわれそうですが)。
二等車といえば、たしか平林たい子だと思いますが、宮本百合子の『播州平野』の中で、主人公が東京から夫の実家の山口県までいくときに、急行列車の二等車に乗ったことを、庶民的ではないと批判していたことを記憶しています。しかし、この林芙美子たちの行動や、彼女が車中でみかけた親子の姿から考えると、二等車に乗ること自体はは批判の対象にはもともとならないことだと、ほんとうは感ぜられていたのではないでしょうか。平林が百合子について書いたのは、1960年代の半ばすぎだとおもうので、その時期には二等車を引き継いだグリーン車は、けっこうぜいたく感があったので、それを引きずったのではないでしょうか。いまや、グリーン料金はすわるための座席料金的な感覚になっているような感じもするのです。