はやてのように

大塚英志さんの『怪談前後』(角川選書)です。『群像』に連載していたものを大幅に増訂したものだということです。
柳田国男が、〈民俗学〉を確立する過程に、共通の語り合いができる場と手段の形成という目的があったというのが、大まかな流れだと読めるのですが、それを通して、〈多民族国家〉をめざした大日本帝国のありようも考えるきっかけになりそうです。(その件に関しては、別のものを読んだ後でまた考えたいと思います。とりあえず、〈進め一億火の玉だ〉というときの〈一億〉とは、本土と朝鮮・台湾を含めた人口概数だったことは確認しておきましょう)
しかし、残念なのは、大塚さんがどうも〈文学〉から撤退しようとする方向性がみえることです。この本の中にも、水野葉舟が手紙文の書き方のような本を出していたことを取り上げて、現在の文学にはそういう方向性がかけていたことが不良債権化したことの原因であるというような指摘があります。でも、そのあとでそれはもう関係ないような語り口で、水野の作品に議論がすすみます。それと、この本ではないのですが、朝日文庫の『サブカルチャー文学論』のあとがきをみていたら、もうこの世界にはかかわらないというような表現がみえました。
大塚さんの議論は論として、いろいろな意見はあるのですが、こういうことでは、『外からちょっと口を出して、すぐに自分のフィールドにひっこんでしまう』ような感じにみえてしまいます。もちろん、当事者でなければわからないこともあるのでしょうが、表の行動だけをみれば笙野頼子さんの批判にますます正当性を与えるようなものになりそうです。
大塚さんも、笙野さんも、共同して、もっと大きな、文学を破壊するものに対してたたかえるのではないかと思うこちらが、ひがめなのでしょうか。